滝本秀隆 短編小説シリーズ 第2作「催眠術」

催眠術
私は43年勤め上げた会社を、今月定年退職した。いきなり毎日が日曜日になった。
 毎日時間が有り余っているが、もともと運動は苦手だし、ゴルフも釣りもカラオケもしない。良く考えれば、私は趣味というものが何も無かった。
 忙しく仕事をしている時は、趣味なんか必要無いと思っていたが、これ程暇になると、趣味のひとつやふたつ持っておけば良かったと思う。おまけに、仕事を辞めたら会社の人間以外に友達というものがひとりもいないことに気づき、愕然とした。
趣味もなければ、友達もいない。先の長いシルバー生活で、これはちょっとマズいのではないか。

 家の中でゴロゴロしていたら、家内から「これ面白そうね!」と声が上がった。
「なんだ?」と聞くと、市の広報誌に「催眠術教室 参加者募集」という記事が載っているという。
「催眠術か。どうせ暇にしているから、覗いてみるか」
「行ってらっしゃいよ! どうせ暇にしているんだから」
「なんだ、涼子は行かないのか」
「私は忙しいから、遠慮しとく」

 私ひとりが、催眠術教室に行くことになった。教室の場所は、家の近くにあるカルチャー教室がたくさん入っているビルだった。教室を訪れると、10人ほどの参加者が集まっていた。参加者の顔ぶれは高齢者か主婦で、若い男性はいない。平日の昼間なので、当然だろう。
 部屋は、20名定員ほどの講義室だ。部屋の前面にはホワイトボードと3脚の椅子が置いてあった。
 午後1時になり、催眠術の講師が現れた。40歳くらいの黒縁眼鏡、鼻ひげを生やした男だ。 
「皆さん、今日は催眠術講座に参加していただき、ありがとうございます。催眠術とは、魔法でも特殊なパワーでもありません。誰でも学べばできるようになる技術なのです。どうぞ、催眠術の技術を習得してお帰りください」
 講座開始のあいさつの後、最初に催眠術とは何なのか?という概念の説明があった。身近にある思い込みの例を上げ、「簡単にいうと、催眠術とは様々な思い込ませる技術を使い、相手の身体や脳に変化を与えることなのです」
 講師の話術は巧みで、聞いているだけで催眠に引き込まれるような気がした。

 早速催眠術の実践が始まった。
「それでは、まず3人の方に催眠術をかけてみたいと思います。希望の方はおられますか?」
 何人かが手を上げ、講師から指名された3名が椅子に座った。講師は順番にひとりずつ催眠をかけていった。催眠がとけた後、催眠をかけるいくつかのテクニックを私達に伝授した。次に講師の指導のもと、参加者同士で催眠をかけ合った。
 2時間の講習だったが、全く経験の無かった私でも簡単に催眠術をかけることができ、満足感があった。趣味の無かった私が、ひとつ趣味と呼べるものが出来た気がした。

 その日の夜、私は家内と夕食をとりながらご機嫌だった。
「催眠術教室に行って良かったよ。催眠術があんなに面白いものとは思わなかった」
「それは、教室に行って良かったわね。お友達もできた?」
「いや、1日で友達はできないよ。だけど、教室に通っているうちに友達もできるだろう」
 食事を終えた頃、携帯電話が鳴った。昼間の催眠術の講師からだ。
「坂口さんですか? 本日は教室への参加ありがとうございました。今日の催眠術講座の参加者の中でも、はあなたは特に優秀でした。良ければ明日、あなただけにさらに難度の高い催眠術を伝授したいと思いますが、いかがでしょうか」
「願ってもないことです。私自身も、催眠術の才能があるとは、驚いています。何時に伺えばよろしいですか?」
 私は、催眠術の技術が優秀と聞いて、とても気分が良かった。

 翌日、私はまた催眠術教室を訪れた。講師が言った通り、教室に来たのは私ひとりだった。
「坂口さん、今日も来ていただき、ありがとうございます。電話でお話した通り、今から高度なテクニックをお教えします」
 私は、プロの術師しか出来ないという催眠術の技術を教えてもらった。
「坂口さん、あなたは本当にスジがいいですよ。催眠術もマジックと同じでセンスのある人は、上達が速いのです」
 そして、私を椅子に座らせ、指を鳴らしただけで一瞬で眠ってしまう、という高度な術を実践した。
 パチン!指が鳴り、私は本当に一瞬で眠ってしまった。そして次に指が鳴った時、はっと目が覚めた。眠っていたのは、1分ほどのはずだが、ずいぶん長く眠っていた気がした。
「眠っている間に、どこかの道を歩いている夢を見ました。わずかな催眠状態でも夢を見るのですか?」
 私は自分が見た夢について聞いてみた。
「催眠は、非常に浅い眠りの状態です。ですから、わずかな時間でも夢を見やすいのです。それでは、この指を鳴らして一瞬で眠らせる催眠術を、あなたに伝授します。これは少し難しいですよ」
「ぜひお願いします!」

 ひと月ほど経ったある日、自宅にふたりの男が訪れた。男は、バッヂを見せて言った。
「警視庁の者です。坂口さんですね。任意同行をお願いします」
「!任意同行? どういうことです!?」

「この近くのATMで、他人の口座から出金する、あなたの顔が監視カメラに写っていました。あなたは最近、催眠術教室に通っていませんか? 老人を騙す詐欺グループの一味が、催眠術教室をやっていましてね。教室の参加者に催眠をかけて、騙し取った金の出し子をさせていたのです」

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